3日目(2022年11月28日) 526頁後ろから4行目~527頁後ろから5行目
【原文】
此心をしらんとおもふ人は、常々心静にして、靜座を好みて、よろづの音聲を聞く者は何者ぞ、是何者ぞと、明暮捨ておかず尋ねなば、終には其主に尋ねあたるべし(注1)。此要(かなめ)をしらざるもの。たとへ萬卷の書をさとし、そらんじよみ申すとも何の益かあらんと、古人も、のたまへり(注2)。
一子、出家すれば、九族、天に生る(注3)と、申し傳へしも、自性を得心して、平常行ひまつたうする人の事なり。聖人は、政の鏡となり、佛は、迷を解くの鏡となり、神は、正直の鏡となり、神佛、聖人は、皆、天の一理に歸しをはりたまふにより、日月星辰、森羅萬像(注4)と成りて、古今來、おこなひたもふ。よつて、矩をこえず(注5)。神道には唯一、儒道には一貫、佛道には三界唯一心(注6)とも説き給へり。如のごとく春夏秋冬の行はるるがごとく、一代行ひ終らざれば、萬法、一に歸する所、得心せりとは、云はれまじ。
予も、自性を得心するものに似たりといへども、昔の行跡(注7)、能き人ににる事かたし。いまだ勤めの、天理に一ツとして、かなはざる事あるべき哉と、はぢ入り、おそるるは、此勤なり。天地萬物生ずる。私なき心を得て、眞實無妄の誠の一心を、しばらくも、放心是なきやうに、一代勤をはるべき事なり。實に免(ゆる)す(注8)といふは、此後のことなり。死するまで勤むる心ざしなきものを、神儒佛の流と學ぶとは、いはれまじ。世界は、數萬の事なれば其宗旨宗旨の教を聞たがへる人も、あるまじき事にあらじ。あやまりあらば、はやくあらためて、賢にうつる事を、いのるものなり。ふつづかなる人の、我したり顔に、人を見下し、欲心のみふかくして、形は、人なれども、心は、さらに人にあらず、たとひ口上、姿は、佛、菩薩や、貴き聖に似せるとも、地獄の巣守りと、これをしるべし。
【現代語訳】
この心を知ろうと思う人は、常に心を鎮めて、静坐を好み、全ての音・声を聞く者は何者か、更に何者かと、朝・夜を問わず尋ねることにより、ついにはその主(ぬし)に至ることができる。
この要諦を知らない者は、たとえ万巻の書を理解し、暗記し読むことができたとて、どのような利益があろうかと、昔の人も言っていた。
一子が出家すれば、九代の親族が天に生れ変われると申し伝えられるが、それは平生の行いを全うできている人の事だ。
聖人とは政治を司る鏡、仏は迷いを解きほぐす鏡、神は正直であることの鏡である。神・仏・聖人は皆、天の一理に帰着されることによって、日月星辰(にちげつせいしん)森羅万象と成る。これは古くから行われてきたことだ。従って道を踏みはずすことはない。
神道は唯一、儒道は一貫、仏道は三界唯一心と説かれている。
このように、春夏秋冬が繰り返されるごとく、一生の実践が終了しなければ、あらゆる法が一つに帰する所を、得心できたとは言えない。
私も、自性が得心できたことと似ているが、昔の行跡が優れた人に似る事は難しい。天理の道を目指す勤めが一つでもできなかったことがあるのではないかと、恥じ入り、恐れるのは、この勤めのことだ。天地万物が生じる私欲の無い心を得て、真実で偽らない誠の一心を、一瞬も放心のないように、一生の務めを終えなければならない。実に師より悟りを開いたことをゆるすこととは、この後のことだ。
死ぬまで勤めるという志のない者は、神儒仏の教えを学ぶとは言えない。世界は広大であるから、各宗旨の教えを聞き違える人もない事はない。
誤りがあれば早く改めて、正しい道に移る事を祈りたい。行き届いていない人が知ったかぶりをして、人を見下し、欲心のみ深くして、形は人なれども、心は少しも人ではなく、たとえ物言いや姿は、仏・菩薩や貴い聖に似せていても、地獄の門番と、これをしるべし。
【注】
(1)此の心を・・・ 尋ねあたるべし:『石田梅岩全集(上巻)』「語録」巻20)を踏まえている。(『先哲・石田梅岩の世界』104~105頁参照)
問:性を知りようを問う。
答:即今見たり、聞きたりする所の主(あるじ)は是れ何者ぞ。是れ何者ぞと、行ずるものは何者ぞ、住するものは是れ何者ぞ、坐する者は何者ぞ、臥す者は何者ぞと、急々に眼を付けて見るべし。是れの如きたゆみなく年久しく功を積むべし。終(つい)には見聞、覚知、行住、坐臥を為す主を見得すること有るべし。是れ自性なり。自性を会得(えとく)すれば只(ただ)気ありて動くばかりにして、自ら道は我と一致ならん。
(2)万巻の書をさとしそらんじよみ申すとも何の益かあらん:名前を直接挙げていないが、梅岩が言う「文書箱」「文字芸者」と同意文である。
(3)九族:自分を中心に、先祖・子孫各4代の計9代の親族。
(4)日月星辰森羅万像:正しくは万象。宇宙全体の全ての存在。
(5)矩をこえず:『論語』「為政第二」に、「我十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えず。」
「矩を踰えず」は「道をはずれない」(『論語』岩波文庫、35~36頁)
上記『論語』は『石田先生事蹟』の次の文章とよく対比される。
「先生日、われ生質(うまれつき)理屈者にて、幼年の頃より友にも嫌われ、只意地の悪きことありしが、十四五歳の頃ふと儒付て、是を悲しく思うより、三十歳の頃は大概なおりたりと思えど、猶言(なおことば)の端にあらわれしが、四十歳のころは、梅の黒焼のごとくにて、少し酸(すめ)があるようにおぼえしが、五十歳の頃に到りては、意地悪き事は大概なきようにおもえり。先生五十歳の頃までは、人に対し居たまうに、何にても意にたがいたる事あれば、にがり顔したまう様に見えしが、五十余りになりたまいては、意に違いたるか、違わざるかの気色、少しも見えたまわず。六十歳の頃我今は楽になりたりとのたまえり。」
(6)神道には唯一、儒道には一貫、仏道には三界唯一心」:『都鄙問答』「性理問答の段」(岩波文庫、92頁)の以下を踏まえている。
「経論に因りて見れば、仏は覚なり。覚は、一切衆生の迷い解くるなりとあり。迷い解くれば、本に帰るゆえに、三界唯一心と云う。述いの解けたる体(てい)を名付けて、仏性と云う。仏性と云うは、天地人の体なり。至極の所は、性を知る外に、仏法あらんや。仏より二十八世達磨大師は「見性成仏」と説けり。又儒には、道の大原は、天に出づ。依りて、「天の命、これを性と謂う。」性に率うは、人の道なりと、説き玉う。性と云うも、天地人の体なり。神儒仏ともに、悟る心は一なり。何れの法にて得るとも、皆我心を得るなり。
三界:一切衆生が生まれ、また死んで往来する世界。欲界・色界・無色界の三つの世界。
(7)行跡:身持ち、行状
(8)免(ゆる)す:師より悟りを開いたことをゆるすなり。(『道話全集』)
〔写真〕『都鄙問答』(石田梅岩著)
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