函館に西川晩翠の指導のもと心学が開花
函館に心学舎の墓があると聞いて、まず称名寺を訪ねた。ここは正保元(1644)年創設の名刹で、高田屋嘉兵衛の墓、土方歳三ら新選組の慰霊碑がある。
函館における心学指導者は、江戸住まいの西川晩翠(元鳥取藩士)。西川を招いたのは名主頭取の松代伊兵衛が渋田利右衛門らと図った。西川はこの地で終焉を迎え、函館港を見下ろす高台の称名寺の松代家の墓地に、伊兵衛と隣り合って眠っている。
函館市立中央図書館には、心学「誠終舎」関係の資料が多数残されており、同館学芸員の助けでそれらを具に拝見できた。
函館の地に、心学が根付いたいきさつは、嘉永4(1851)年5月、西川が函館に招かれ、社中を集め 松栄講を創らせた。そこで毎月1・6の日に心学道話を講じた。社会教化に努めること数年。ついに期が熟し、安政4(1857)年5月19日に、道場を大町沖の口前に新築。函館奉行、堀織部正利煕が舎号を撰して、誠終舎と書き与えた。
西川は舎の開講を待てず同年の4月9日、
「かりの世にかりの命に仮の身を入用次第返済をする」の辞世を残し逝去。
舎の運営責任者は松代・渋田、西川の没後、講師は代島剛平が務めた。
代島は、松前藩士で、森重流砲術・柔剣道の達人で、心学を晩翠に学ぶ。安政元年4月米使ペリー、9月露使プチャーチンの応接掛を担当。同2年函館奉行支配定役に就く。明治元年、政変に感ずるところあり亀田村に移り帰農。同2年函館に帰り学校を開き子弟を教育し、夜間心学道話を講じ、明正会と称した。明治7年没。
渋田は勝海舟も彼の学識・識見・蔵書家であることに敬意を表す。安政5年12月に没する。
松代は、嘉永以来、農業にも心を尽くし大野村の開墾に着手。明治14年田畑30余町歩の成墾を見る。コレラの防疫に挺身努力の結果これに感染し、明治19年病死。
心学関係者はいずれも、その時処位を得た実践者であった。中央図書館に所蔵の心学に関連する資料群の内訳は以下の通り。
①誠終舎扁額、②西川晩翠関連21種、③松代伊兵衛関連6種、④代島剛平関連4種、⑤渋田利右衛門関連他9種、⑥一般書11冊、⑦その他、開架に心学関連書多数。
函館の地でお世話になった方々には、この場を借り、感謝申し上げたい。
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