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執筆者の写真大和商業研究所

石門心学風土記 第39回 山城の国 鳥辺山・梅岩と門弟たちの墓碑

更新日:2023年3月6日

墓参者が絶えない石田梅岩墓碑

 倉本長治(商業界創設者)は熱心な心学信奉者で、昭和年間に石門心学を各地の商業者に弘布する役割を担った。彼の著書『石田梅岩ノート』(商業界)には、梅岩の墓を探した苦心譚の後に、墓参の様子が載っている。「在京の石門心学のゆかりの人々が詣でたのであろうか。墓前の花差しの青竹はマダ青々としていた。私は墓に水をやり、花筒に新しい生花を差した。」

 私達が訪ねる際にも、手向けられた花が枯れずに残っていることも度々ある。心学社中が折に触れてお参りする場所があることは幸せだ。

 なお、子息・倉本初夫(商業界主幹)の著書に『倉本長治~昭和の石田梅岩と言われた男~』がある。

先師の周囲に十六名の心学者が眠る聖地

 京都・鳥辺山の旧延年寺跡にある梅岩先生の墓参に何十回と訪れているが、新暦命日当日の十月二十九日は初めてであった。九月二十四日の旧暦命日には亀岡市の生家にて墓前祭があり、年二回の命日に参加が叶った。

 かねて探していた梅岩の高弟・杉浦止斎の墓を発見できたことは、望外の幸せであった。止斎は亀岡藩士であり、師没後は遺塾を守り講師を務め、大阪でも私塾を開き、師が至った境地を広めた。また半兵衛麩を指導し現在の十二代目当主迄、その由来が伝え続けられている。

 下記の十七名の墓石がこの地に建立されているが、梅岩の直弟子は②③の2名のみである。先師を慕い孫弟子以下の心学者達まで集うことは、全国でも珍しいケースと言えるのではないだろうか。ここは石門心学の聖地である。

 以下氏名を没年順に記載する。

①石田勘平1744年、②杉浦止斎1760年(元武士)、③手島堵庵1786年(五楽舎主)、④手島和庵1791年(堵庵長男、明倫舎主)、⑤北村柳悦1795(修正舎)、⑥浅井祐敬1797年(時習舎都講)、⑦中澤道二1803年(参前舎主)、⑧上河淇水1817年(堵庵養子、明倫舎主)、⑨入江孝山1822年(致身、紀州出身、恭敬舎主)、⑩中澤道輔1825年(参前舎主)、⑪立川荘平1829年(肥遯=ひすい、甲賀・方來舎主)、⑫薩埵徳軒1836年(時習舎主)、⑬手島毅庵1838年(和庵養子、明倫舎主)、⑭柴田鳩翁1839年(道話の神様、修正舎主)、⑮入江厚齋1840年(義質、恭敬舎都講)、⑯手島訥庵1873年(毅庵の養子、明倫舎主)、⑰柴田遊翁1874年(鳩翁養子、修正舎主)

富岡鉄斎家が続けた心学行事

 富岡鉄斎家の資料によると、毎年12月19日(梅岩高弟の富岡以直の命日)に、上河・杉浦・遠藤・冨永・富岡の五家で維持する「石田門人黌舎」の人々が集っていた。

 私達が訪ねる際にも、手向けられた花が枯れずに残っていることも度々ある。心学社中が折に触れてお参りする場所があることは幸せだ。

 尚、この杉浦家は門弟・杉浦宗仲(大黒屋当主)の子孫で、止斎とは別人。墓地の花屋で尋ねると、現在も毎年命日に姓は不明であるが、三軒が揃って墓参しているとのこと。

 末永くこの行事を続けてほしいと願う。

【参考文献】『富岡鉄斎の画業にみる神仏敬仰の精神』(細里わか菜)

【写真上】梅岩先生の墓碑石田勘平の墓

【写真下】杉浦止斎墓石の前で令和の門弟達と(いずれも2022年10月29日)




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